【世界遺産】18時間目 日本の文化遺産⑧(厳島神社/宗像・沖ノ島)
こんばんは、世界遺産検定マイスターのみや兄です!世界遺産検定1級合格に向けての勉強シリーズです。
公式テキストである「すべてがわかる世界遺産大事典(上)(下)」を中心に自分の苦手ポイントメモなどを加えていきたいと思います。
【世界遺産検定1級 公式テキスト】
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今日は18時間目ということで「18日本の文化遺産⑧(厳島神社/宗像・沖ノ島) 」です
■18日本の文化遺産⑧(厳島神社/宗像・沖ノ島)
◯厳島神社
(文)日本(広島) 1996年
登録基準(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅳ)(Ⅵ)⇒覚え方:旅行先は厳島にしろと聖徳太子(12く島に46と~)
◯登録基準(Ⅰ)
平清盛によって造営された社殿は寝殿造りの様式。海上にせり出した建造物と背後の山が一体となる建築景観。
◯登録基準(Ⅱ)
山や海などの自然環境と建造物が融合して織りなす独自の景観は、日本人の精神文化を理解する上で重要。
◯登録基準(Ⅳ)
13世紀に建造された建物が現存する。自然崇拝から発展した、周囲の景観と一体をなふ古い形態の社殿群の姿を今に伝える重要な見本となっている。
◯登録基準(Ⅵ)
日本の風土で育まれた神道の建物。神道が大陸から伝来した仏教と融合、分離してきた歴史を物語る遺産。
◯遺産価値総論
古くから聖域とされてきた弥山の深い緑を背景に、海上に突き出す鮮やかな朱塗りの社殿が広がる。
現存する建造物は、原始的な社殿を現在のような姿に発展させた平清盛の卓抜した構想力と美的センスを示すとともに、日本人の信仰心や精神文化の発展の過程を知る上でも重要な史料とされる。
社殿群は海の上を渡る回廊で結ばれており、緩やかな曲線を持つ「檜皮葺」の屋根を見ると、神社建築には用いてなかった「寝殿造り」を取り入れた。
◯歴史
593年 最初の神社の創建とされる年。
平安末期 平清盛は宋との貿易に力を入れ、瀬戸内海の整備を推進。厳島を「海上の守り神」とし社殿の整備を行った。
1207年 火災でほとんどが焼失
1241年 再興され、現在の社殿の起源となった。
室町以降 島内に市が開かれ市街地も発展。
中世以降 空海が開いた弥山山頂部の寺院などが一般庶民の信仰を集めるようになり、参拝者も増加した。
シンボルである海上の大鳥居も倒壊と再建を繰り返しており、1547年 再建の際に控柱を持つ両部鳥居の形式になった。
1407年創建の五重塔、1523年創建の多宝塔、桃山時代に豊臣秀吉が建造した豊国神社本殿(千畳閣)などの建造物も加わる。
神社と寺院、そして周辺の自然環境が一対となった景観が完成した。
◯構成資産の概要
①厳島神社・本社
本社の本殿、幣殿、拝殿、祓殿、高舞台、平舞台といった主要建造物が、海上の大鳥居と一直線の軸上に並ぶように配されている。
祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神を祀っている。
②摂社客神社
本社と東廻廊で結ばれた社殿群。建物の形式や配置は本社とほぼ同じで規模が一回り小さい。1223年の火災で焼失し、1241年に再建されたものが現存している。
③能舞台
本社と西廻廊で結ばれる能舞台。1680年改築、日本で唯一海に浮かぶ能舞台。共鳴のために床下に置かれる甕は無く、床板を支える根太を三角形に配置、床板を張り出させることで大きく響くよう工夫されている。
④豊国神社本殿、五重塔、多宝塔
「豊国神社」=豊臣秀吉が僧の恵瓊(えけい)に建立を命じた寺院が起源。
「五重塔」=和洋建築の様式の一部に、禅宗様を取り入れた折衷様式が特徴。
「多宝塔」=外観に和様、内装の装飾などに大仏様と禅宗様の建築様式が見られる。
⑤弥山原始林
古くから聖域とされた自然林。1929年に天然記念物に、1957年に特別保護区となる。
山頂付近には空海が厳島で修行した際に護摩の火として灯し、以来1,200年燃え続けていると伝えられる「消えずの霊火」が残る。
■厳島神社はまずテキストP105の図を見て、建物の配置を見ながら覚えると意味も入りやすい。様式、祭神、歴史をおさえておく。
Wikipedia→厳島神社
◯「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
(文)日本(福岡) 2017年
登録基準(Ⅱ)(Ⅲ)⇒覚え方:沖ノ島には踏み込めない(23こめない)
◯登録基準(Ⅱ)
古代日本は沖ノ島の神を東アジアにおける対外交流の航路の守り神とした。
そのため当時の先進技術で作られた奉献品を用いて古代祭祀が行われた。
沖ノ島には4世紀後半から9世紀末の約500年間の古代祭祀の変遷を伝える考古遺跡がほぼ手付かずで残る。
◯登録基準(Ⅲ)
沖ノ島は1,500年以上にわたり信仰の対象となった。「神宿る島」として現在も入島を制限している。
沖ノ島、大島、九州本土の宗像大社三宮では宗像三女神の信仰が生まれ現代につたえられた。
◯遺産の概要
九州北部の福岡県宗像市と福津市にある 『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』は「沖ノ島」と「宗像大社」「古墳群」の3つの要素で構成される8資産。
「沖ノ島」=日本から朝鮮や中国へ向かう航海上の目印となった島。4世紀頃から海の安全を願う国家的な祭祀が行われてきた。
■「祭祀の形態」は4段階に発展
①「岩上祭祀」巨岩の上で祭祀を行う。
②「岩陰祭祀」庇状になった岩の陰で祭祀を行う。
③「半岩陰・半露天祭祀」
④「露天祭祀」平らな場所で祭祀を行う。
数々の奉献品について
「銅鏡」や「金製指輪」「カットグラス破片」「雛型五弦琴」「富寿神宝」など、約8万点もの各時代の貴重な奉献品が発見され、そのすべてが国宝に指定されている。
沖ノ島が海上の島であること、上陸が禁忌とされていたことなどが「祭祀の証拠」として残されたと考えられる。
「宗像大社」は沖ノ島の信仰が「宗像三女神」という人格を有する神に対する信仰へ発展し、自然崇拝と共存しながら「宗像・沖ノ島」の信仰を形成した。
「露天祭祀」から「社殿を持つ祭祀」へと発展したことも示している。
『古事記』や『日本書紀』には「おきつみや」「なかつみや」「へつみや」の名前が記されていた。
◯歴史
3世紀頃 ヤマト王権が登場。
4世紀後半 朝鮮の百済と友好関係を結ぶ。
鉄資源ほか、当時の優れた技術や文化、知識を入手していった。対外交流を行うためには、日本列島と朝鮮半島の間の海を越える航海術を持つ宗像氏の協力が不可欠だった。
宗像氏は航海の道標となる沖ノ島を信仰していた。協力を得たヤマト王権も沖ノ島で祭祀を行うようになる。
「国家的祭祀」として始まった沖ノ島の祭祀では奉献品が納められ、宗像氏もヤマト王権と協力することで勢力を拡大させていった。
その後は遣隋使や遣唐使の派遣が続き、沖ノ島だけでなく大島や本土でも祭祀が行われた。
◯保全上の問題
ICOMOSの事前勧告では最初、沖ノ島と小屋島、御門柱、天狗岩の4資産のみ「登録」勧告が出たが、世界遺産委員会では三社一体の信仰が評価され、8資産全体で登録された。
登録基準については(Ⅱ)(Ⅲ)のみ認められ、(Ⅵ)は認められなかった。
沖ノ島の信仰をどのように「生きた伝統」として伝えていくかも課題。
緩衝地帯などの開発の影響評価、沖ノ島への不法上陸、遺産の管理体系の明確化などが求められた。
◯構成資産の概要
①宗像大社沖津宮
「沖ノ島」と付随する岩礁「小屋島」と「御門柱」、「天狗岩」からなる信仰の場。
沖津宮は宗像三女神の田心姫命が祀られている。
②宗像大社沖津宮遥拝所
沖ノ島から約48km離れた大島にある遙拝所。上陸不可の沖ノ島を遠くから拝むために設けられた。晴れて空気の澄みきった日は沖ノ島を望むことができる。
③宗像大社中津宮
宗像大社沖津宮遙拝所と同じ大島にあり、中津宮本殿は17世紀前半の再建とされている。
中津宮は宗像三女神の湍津姫命が祀られている。
④宗像大社辺津宮
12世紀には存在しており、現在の辺津宮本殿は1578年に再建されたもの。現在の宗像大社の神事の中心となっている。
辺津宮は宗像三女神の市杵島姫命が祀られている。
⑤新原・奴山古墳群
沖ノ島祭祀を執り行い、沖ノ島を信仰する伝統を継承した宗像氏の墳墓群。
本土から沖ノ島へと続く海を望む台地上に41基の大小様々な墳墓が一体的に築かれている。
■沖津宮、中津宮、辺津宮の情報整理と祭祀の歴史、そして宗像氏の存在と文化交流についてがポイントかと思います。個人的には宗像三女神が覚えられません。
Wikipedia→「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
おわりに
「厳島神社/宗像・沖ノ島」についてはは、どちらも宗像三女神がでてきますね。厳島神社は社殿の造りや平清盛すげーってところです。沖ノ島は構成資産と宗像氏の存在、文化交流あたりをおさえておくと良いですね、無断上陸禁止!
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